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神社について

御祭神

高龗大神たかおかみのおおかみ

石鳥居神号標

川上社

相殿神
大山祇神(おおやまつみのかみ) 
大雷神(おおいかづちのかみ)

御末社

御祭神

山之神社

大山祇神

水神社

弥津波能売神(みつはのめのかみ)

恵比須社

大国主神(おおくにぬしのかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ)

愛宕社

火武須毘神(ほむすひのかみ)

川上社

天渟中原瀛眞人命(あめのぬなはらおきのまひとのみこと)
※天武天皇の諡号

御神徳

高龗大神は龍神にて水・雨を掌られる大神様です。生きとし生けるものは、すべて水無くしては生命を保持することはできません。
そして、「農」を以て国の基礎としてきた我が国においては、雨を降らせ、また止めるなど、雨を掌られるこの大神様に対する人々の尊崇の念は極めて篤く、古来より今日に至るまで変わることなく続いています。

この大神は、神代において伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が火の神かぐつち神を斬り給うた時に生(あ)れませる神様です。

「高龗神」は山の峰の龍神、下社に祀る「闇龗神」は谷底に棲まれる龍神のことです。
高龗神を御奉祀する神社の数は、全国で本社 約1,300社、境内社 約300社、計1,600社となっています。

拝殿掲額
〈シンウテンサイ〉
神の雨がうるほしそそぎ
恩恵をほどこすの意

御由緒
御崇敬

丹生川上の地は、日本書紀神武天皇即位前紀戊午年九月甲子の条に、「厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて、丹生の川上に陟(のぼ)りて、用(も)て天神地祇を祭りたまふ」と記されており、上古より祭祀を行う聖域であったことが知られます。

天武天皇の御代白鳳四年(675)、「人の声聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬(いつ)き祀らば天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」という神宣により、御社殿が建立、奉祀されました。
それ以降、祈雨・止雨の神として奈良時代には淳仁天皇・天平宝字七年(763)の奉幣祈雨、光仁天皇・宝亀六年(775)の奉幣祈晴をはじめ、室町時代に至るまで数十回の奉幣祈願がなされ、朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けてまいりました。

この里は 丹生の川上ほど近し祈らば晴れよ 
五月雨(さみだれ)の空

後醍醐天皇が吉野の行宮(あんぐう)に在らせられた折、当社に寄せて詠まれた有名な御製です。朝廷の奉幣にあたり、旱魃(かんばつ)の際の祈雨には黒毛の馬を、長雨の際の止雨には白毛の馬を奉るのを例としました。
(なお、この生きた馬の代わりに絵馬を奉納するという風習が、のちに普及したといわれています。)

平安時代の法令集「延喜式」(927)では、名神大社という特に霊験あらたかな神社として月次・新嘗祭に際し官幣に預かり、神階は寛平九年(897)従二位に叙せられました。また、雨師社・雨師明神・丹生大明神とも称されました。

そして平安中期以降は、朝廷における最高格の社格となる「二十二社」の一つに数えられました。しかし、応仁の乱(1467)の後は奉幣も途絶えて衰微し、社地の所在も不詳となりました。

明治以降、御由緒の重きにより官幣大社として下社(明治四年)、上社(明治二十九年)、中社(大正十一年)の三社が列せられました。

拝殿内に掲げられた白毛・黒毛の絵馬

御遷座と元境内地・
宮の平遺跡

当社境内地は、昭和三十四年の伊勢湾台風による大滝ダム建設に伴い水没のやむなきこととなり、天下万民の幸福のため、現在地に平成十年三月にご遷座しました。

その後に行われた県立橿原考古学研究所による元境内地の発掘調査の結果、本殿基壇の直下から数期にわたる神社関連遺構が検出され、奈良時代後半から平安時代前期頃に祭場として意識され、平安末期から鎌倉初頭には社殿が建立され、その後造替を繰り返して現代までに奉祭され続けてきたことが明らかにされました。

「延喜式」に名が見える古社の全面的発掘は初めてのことで、神社・社殿建築の歴史・展開を考えるうえで貴重な事例とされています。

また元境内地からは、長さ30センチメートル前後の石棒が10本以上出土。うち1本は直立した状態でした。

これらは縄文時代中期末~後期初め(約4,000年前)の祭祀跡とみられています。

元境内地でのご社殿

  • 神木胎内から出てきた
    木の御霊と石の御霊とを
    合わせもつ霊石(拝殿内)

  • 樹齢六百年になる杉のご神木
    (拝殿右脇)

  • 鎌倉時代の旧御本殿礎石
    (拝殿内)